学生の頃からなのだが、マンガや小説に登場してた、天海僧正や千利休、水鏡先生、他には手塚マンガの「ブッダ」に出てくるブラフマンなど、主役ではなく、主役を導く側の人物に心惹かれていた。
これらの人物達は、主役が取り組む戦闘などのそれぞれの人生の課題の専門家ではなかったはずだ。
そうした人物達は、主役達に意味不明の問いを投げかけて、ワハハと笑って、どこかへ行ってしまったり、「よしよし」と言ってばかりだったりする。 それらの問いは、具体的な指示ではなかったと思う。
でも、そのおかげで、徳川家康や劉備玄徳などの主役達は、大きく前進していく。
今の世の中で、そんな役割って何だろうって思ってた。 コンサルティングは近いけど、具体的指示を与えるから、ちょっと惜しい。じゃあ、宗教家なのかなと思ったりしてた。
いや、そもそも彼らは何が優れていたのか?
そして、私は、苫米地博士のいう抽象度という概念にたどり着いた。
ブラフマンは別として、彼らの共通点は、圧倒的な抽象度の高さだったのではないだろうか。
抽象度が高ければ様々なことが見えてくる。
それは、まさにコーチングではないのか。
歴史上、抽象度の高い視点が、実は、世の中を変えてきたのではないだろうか。
偉大な業績を残した人物達には、実は偉大なコーチがいたと言えるのではないだろうか。
残念なことに、千利休を亡くした豊臣秀吉は、その後、自分の小さくなった煩悩にまみれながら、悲しい死を迎える。
逆に天海僧正を重用した徳川幕府は、鎖国政策などの良し悪しは別としても、15代続いていった。
こう考えていくと、コーチングは、もともと日本にも存在していたことになるのかもしれない。
世界のスポーツ界、政財界などで、圧倒的な結果を出しているコーチング理論が、日本にもっと広まれば、もともと歴史的土壌があるとも言えるとすると、世の中へのインパクトは、増大していくことになるだろう。
ついでに言うと、自分が意識してきた天海僧正が、建立したといういわれのある天台宗の滋賀院で、苫米地博士が得度式を行ったというのは、単純にうれしい。