「なぜ、多くの宗教は人を救えなくなっているのか?」苫米地式コーチング認定コーチ いしいたかし

私は、雅楽器の篳篥(ひちりき)という、主に神式の祭事や法事で演奏される、特殊な楽器を演奏する役割を持っているのだが、その役割柄、宗教系の職業の方と話をすることも少なくない。

神道系や仏教系、その他様々。

もちろん立派な方たちばかりなのだが、言葉の端々に、あそこの寺はお金があるからいいだとか、ここの教会は信者がうちより多いんだとか、こちらが驚くような話が、散見される。

何が驚きかと言うと、人と人を比較するような話が、必ず含まれるのだ。

すごい時は、会話全部が、そうした比較の話だけで終わってしまう時もある。

当の本人は、大抵そんなことには、無自覚のようだ。

神と人、それぞれ一対一で対話するのではないのだろうか?

比較とか、差別を超越して、悟りを目指すのではないのだろうか?

みんな平等という教えだからこそ、救われるのではなかったのか?

しかし、私が接した一部の宗教関係者たちが、そうしたマインドになってしまうのも、仕方がないのかも知れない。

本当に集中して修行をするのは、人生の中のほんの一時期で、その他は、日常の行事、日常生活に忙殺される。

その中でも、テレビを見たりする時間が長かったりするようだ。いや、ちょっと年齢が高めだと、一日中テレビを見てる方もおられたりするようだ。

中には、テレビの芸能ネタを本当によくご存知である方も少なくない。

実は、そのテレビこそが、人との比較、というマインドを洗脳するシステムとして機能しているということに、気づいていないのであろう。

例えば、車のCMでは、綺麗な風景の中を、いい車を運転して、隣に美しい女性(又はイケメンの男性)を乗せているという幸せそうな映像を、臨場感たっぷりに流して、現実との強烈なギャップを生じさせ、購買行動を促す。

それが、買いたいと思っても買えない現実があって、知り合いの人が、その車を買ったりすると、強烈な嫉妬が生じる。

それら、CMのスポンサーが、テレビ番組にお金を出しているのだから、その番組の中でも、購買を促す仕掛けを埋め込んでくる。

こうして、テレビを長く見ていれば、映像と音声と情動などを使って、人と比較するという思考が、強烈に埋め込まれる。

それには、多くの人は無自覚だ。

そういう無自覚な方の特徴として、私が何か主張すると、その反論として、「この前、テレビでこう言ってたから」と、テレビを根拠として主張してくる。

まったく恐ろしい。

宗教の教えではなく、テレビの世界が、判断基準になってしまっているのである。

基準が、大事なはずの「教え」ではなくなってしまっているということが、大きな問題なのである。

では、どうすればいいのか?

それには、一次情報に触れる、つまり、原点、ブッダやキリストや、それぞれの教祖の言葉、態度、行いを注意深く追求することではないだろうか。

彼らが見たものを見ようと追求することが、本当の求道ではないだろうか。

そこに現状を超えた救いの世界があるのではないだろうか。

苫米地式コーチング認定コーチ

いしい たかし

追記

東日本大震災で、放射線まみれの、井戸や側溝の中のドブさらいなどの除染作業を笑顔でやっていた、若い宗教家たちがいる。

中には、被災地の現地に泊まると、ボランティアの受け入れ側に迷惑かかるからと、毎日、高速のサービスエリアで、車中泊をしながら、何ヶ月もボランティア活動を続けていた宗教家もいる。

彼らの行い、マインドこそが、教えの原点に近づく、真の求道であろう。

しかしながら、私の父方の親戚に、某大手テレビ局の名誉顧問がいるというのは、何とも皮肉な話であるのだが。